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日本画 榊原紫峰

榊原紫峰

榊原紫峰(さかきばら しほう)は1887年(明治20年)京都の染色図案の画家の子として生まれた日本画家である。12人兄弟の次男として生まれたが、家は貧しく後にこう話している。「町内における階級思想や家持ちと借家人との差別的待遇というようなものに早くから悩まされました」このような人間世界の疎ましさから、かえって自然の純で優しい動植物たちへの愛情を深めていったのであり、紫峰の生涯のテーマが花鳥画一筋であった理由であろう。 明治36年京都市立美術工芸学校に入学し、2年後に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)が創立されると、そちらへ編入し44年に卒業している。在学中に文展に入選し才を現したものの、大正3年以降は落選を繰り返したことから、自由な個性の発露を目的とした国画創作協会を大正7年に創設した。しかし協会の経済状態は思うに任せなかった上、妻が病没したり協会の設立メンバーである親友が二人も亡くなったりと苦悶のどん底が続いた。結局、昭和3年に七回展を最後に国画創作協会を解散、これ以降は特定の画壇に属することはなかった。昭和12年には京都市立絵画専門学校の教授になり、14年には文展の審査員になったが孤高の生活を守り続け、自然との交感、自然との合一をひたすら求め続けた生涯であった。

「美は刹那であると共に、美は実に永遠であらねばならないと思う」

そんな紫峰のことを再婚後の娘・敦は「洛南に巨椋池というのがあって、父はよくそこへ写生に行っていた。それが都市計画で埋められるということになり、大いに怒って、陳情だ、反対運動だと息巻いていた」と述べている。 愛してやまない水辺の小動物や草花たちが死んでいくことに深い憤りを感じていたのである。その愛の対象は花や鳥だけに限らず家族にも向けられていて、「子供を本当に愛することのできない人は、花も鳥も本当に愛することはできない」と語っている。他を抜きん出て彼の作品を輝かせているのは、小さきものや幼きものに対する、心からの慈しみと深い愛情の故であろう。晩年の紫峰の言葉には、そうした深い想いが込められている。 「美は刹那であると共に、美は実に永遠であらねばならないと思う」